ウォータージャンプ大阪に襲来
豊臣家滅亡を描いた歴史長編「城塞-司馬遼太郎 著」の冒頭、司馬遼太郎は生駒山へと登る「くさか坂(現 阪奈道路付近)」から見渡す景色にふれ、『ここの眺望が日本のどこよりもすきだ』と述べています。また、この作品に出てくる徳川家康も、その生涯のうち大和(奈良県)から大阪に入るために何度かこの生駒山を越え、その際、同じように大阪平野を見はらしたのではないかともあります。さて、2008年6月、人口880万都市大阪に初めてできたウォータージャンプ、「大阪ウォータージャンプ・O-air(オーエア)」は、大阪府と奈良県をへだてる生駒山に位置し、大阪方面からは、くだんの阪奈道路をとおって行きます。その際、木々の間からは時折、司馬遼太郎が述べた“摂河泉(せっかんせん-摂津、河内、和泉)”の景色が眼下に広がります。
ウォータージャンプは、スキーやスノーボードをつけ、高分子ポリエチレン製のブラシの上を滑走し、エア台と呼ばれるジャンプ台で、ジャンプ、エア(技)をした後、プールに着水するというスポーツ、または施設のことです。もとはと言えば、スキーやスノーボードのジャンプの練習を安全にするために考えられたものです。 このウォータージャンプを大阪に造ったのは(有)アプレスキーを率いる白川直樹氏(写真)です。 スキーやスノーボードなど、雪山スポーツの延長線として始まったものが、大阪の地にやってくるまでの歴史、また、ウォータージャンプの今後の展望などを語ってもらいました。
白川 直樹 (しらかわ なおき) 氏
1980年代前半に選手としてナショナルチームで活躍、’83年にはFISフリースタイルワールドカップの監督を務める。その後独学で測量を学びスキー場設計の道へ。
フリースタイルスキーの指導者を引退してから数年のちには、スキー場設計士として再びウインタースポーツ業界に。
スキージャム勝山(福井県)、ホワイトピアたかす(岐阜県)、白馬さのさか(長野県)等、数々のスキー場の設計を手がける。また人工コブの作成方法も考案。白馬さのさかスキー場に、画期的な「緩斜面+人工コブ」を造り、一般スキーヤーの支持を集める。
ウォータージャンプとの関わりは’78年の選手時代から。その後自らウォータージャンプの開発を手掛けるように。
’85年には木崎湖に、’95年には白馬さのさかに、そして2002年には(有)アプレスキー直営の「桑名ウォータージャンプ・K-air(三重県)」を、また、’06年には「西部ゆうえんちウォータージャンプ・S-air(埼玉県)」を開業させる。そして中京圏、首都圏に続き三大都市圏としては最後になる近畿圏に’08年6月、「大阪ウォータージャンプ・O-air」を開設。
多才な活動は、ウインタースポーツ業界を常にリードし続けている。
ウォータージャンプの歴史
『ウォータージャンプの歴史?語れば長いよ。(笑)』
― そんな一言から日本におけるウォータージャンプ(以下W・J)の話がはじまりました。
『日本で一番最初にできたのが1977年、河口湖で私の先輩のカワベさんという人が仕掛け人だった。アメリカからW・J台を輸入したんだよ。それを河口湖に持っていったわけ。それが日本のW・Jスタートだね。その時私はこのW・Jのスタッフとしてかかわったんだ。この台は、エアリアル用でアプローチ斜面が30度強あってエア台もデカイやつだったから、あぶなかったね。
その後、河口湖で使ってたW・J台をディズニーランドの近くの「らら・ポート」にある沼にもっていってね、その沼に設置して飛んでたんだ。まあ、沼だから飛んだらとにかくドロドロになってどうしようもなかったよ。(笑)そこでやってたのは2年間ほどだったけど。 それからしばらくはW・
しばらくしてから、私の地元は北海道のテイネハイランドの近くだったんだけど、そこにスポンジのジャンプ台を造ったんだ。
’82年頃のことだったかな。ゲレンデに四角いサイコロみたいなスポンジを敷きつめたんだ。本当は水辺でしたかったんだけど川や湖にW・Jを造るのは役所の認可がいろいろあってね。しょうがなかいからコレにしようかって。(笑)
そこは「モーグルをやるために」とか、「ちょっとだけ飛びたい」とかいう人たちが結構来てくれたんだ。ストレートジャンプとか、スプレッドとかしたりしてね。他に飛ぶとこがなかったから全国から沢山の人たちが来てくれたんだな。
『それからその後、仕事の関係で長野に移り住んで、木崎湖って湖があるんだけど、そこにようやく水の上にW・Jを造ったんだ。これが’85年頃だったかな。そこに北海道からも私の教え子たちが来てくれたりしてね。だけど、ここも1年くらいで閉鎖したんだ。アプローチの台の滑りを良くするために洗剤をまいたんだけど、この洗剤の泡が周辺の河川で問題になっちゃって。そんな中でも、この施設からオリンピック選手がでたんだ。
ここでいったんフリースタイルスキーをやめたんだ。もちろん教えるのものね。独学で測量を勉強するために。それから現場を与えられて、リフトの設計、スキー場設計の実践を重ねたんだ。
’95年に「白馬さのさか」のW・J設計をしたんだ。この「さのさか」のW・Jは盛況だったよ。それまでのW・Jはどっちかっていうとエアリア実は、「さのさか」はスキー場も私が設計したんだけど、ゲレンデの造り方をガラっと変えたんだ。それまではウサギ平(白馬八方)とか、リステルの急斜面とか、モーグルっていうのは難斜面でするものだったんだけど、「白馬さのさか」では22度の緩斜面に人工コブコースを造ったんだ。最初は非難ごうごうだったね。これは「モーグルじゃない。」って。(笑) だけど沢山のお客さんが来てくれて、その人たちが夏場W・Jも飛びに来て「さのさか」を盛り上げてくれたんだ。
ただこの頃から、山でW・Jを経営するのに限界を感じてたんだ。運営をしていくのも、お客さんを集めるのもね。実は独学でマーケティングの勉強もしたんだけど、都会でこういう施設を造った方がいいじゃないかなって。いろいろシミュレーションしたんだ。それで三大都市圏に造ろうと思ってね。まず、’02年、三重県に「K-air(ケーエア)」を造ったんだよ。ここは名古屋中心街から高速で30分ほどの立地なんだけど、沢山のお客
「O-air(オーエア)」の準備を始めたのは3年くらい前からだったかな。この「O-air」には今までのW・J設計で得たノウハウがすべて詰め込んであるんだ。エア台の形、プールの形とか、まあ、その他いろいろあって、細かいことは“企業秘密”だけどね。(笑)』
ウォータジャンプのこれから
― 「O-air(オーエア)」には現在考えられるすべてをそそぎ込んで設計したという白川氏。そのW・Jに対する哲学と今後のW・Jの可能性について質問しました。
『一番大切にしたのは「お客さんの要望に応じたエア台を造ること。」まあ、あたりまえなんだけどね。(笑) つまり、「この台で飛んでくださいよ。」っていうんじゃなく「飛びたい台はお客さんが決められる。」 そのために、「O-air」ではこれまでのノウハウを詰め込んだ9それからエア台の並べかたも工夫したね。普通、一番大きなエア台って施設の真ん中にあるんだよね。エア台を造る側は、一番デカイ台に力をいれて、カッコよく飛んでもらおうってね。でも、スキー場でもそうなんだけど、大きい台を一番イイとこに造ると、これからエアをやってみようっていう人が入りにくいんだな。だから“一般”の人が飛びやすい台を中心に設計してるんだ。
W・Jの魅力はその爽快感だと私は思ってるんです。もともとは、エアリアルやモーグルの練習用に造られたものなんだけど、W・Jが一つの“レジャー”として広く浸透していけば、と思っています。
